”元気な企業に”に選ばれテレビ出演
【宮崎市】大学卒業後、庭師の道に進んだ
重面(しげつら)精一さん(36)=広瀬支部、男子部県主任部長=は、大手住宅メーカーの営業マンを経て、二十九歳で独立。今、経営する建築会社「(株)粋の家」が、注目を集めている。青年実業家の歩みを追った。
現実の壁
本年、元日に放映された宮崎放送のテレビ番組、「トップが語る宮崎経済2010」。不況の中でも“元気な企業”を特集した番組で、建築業界の代表として、重面さんが出演した。
「若い私が選ばれて、大変恐縮しています。経営の革新も、不況に負けない根本も、経営者自身の心につきる。学会の中での薫陶のおかげ、と思っています」
庭師を志したのは、少年時代。「庭木が好きな母の影響で、幼い頃から庭園や古城に連れて行ってもらったことがきっかけです」
学生時代の1993年(平成五年)、第十四回九州総会で池田名誉会長のと初の出会いを。“九州の同士は、アジアの模範として輝いてほしい”との指導に、一流の庭師になろう、と腹を決めた。
猛勉強し、在学中に「造園施工管理技士」「造園技能士」の資格を取得。
96年、造林会社に就職。庭師としての第一歩を踏み出した。
だが、現実は、そう甘くない。造園に割り当てられる予算は少なく、樹木の知識も無い建築士がひいた図面通りの庭づくり重面さんには、ある信念があった。
「家」と「庭」。それで家庭だ。庭は住む人たちに、互いに触れ合う機会と心の安らぎを与える。充実した家庭を気づく一助となるはずだ。
そんな庭を造りたい。しかし、いつになったら・・・・・・。
悩みから唱題に挑戦した。その結論はー将来、自分の会社をもつこと。自分が理想とする庭を造ることが出来る舞台を。そのために、今はより多くの経験を重ね、視野を広げることだと心に決めた。
学会員の誇り
一本気な正確なだけに、決断は早かった。翌日、会社に辞表を提出。一ヵ月後、大手住宅メーカーの宮崎支店に就職した。庭師から一転、営業マンの生活が始まった。
3000件の「飛び込み」を課せられ、がむしゃらに訪問し続けるが、話に乗ってくれる所は無い。
その理由を、当時、交際していた妻・真弓さん(36)=地区副婦人部長=は、「電話の応対一つとっても、丁寧とはいえず、ハラハラするほど」。
1年経って実った自注は1棟だけという散々な結果だった。「そろそろ、将来を考えたらどうだ」と、支店長から言われる始末。
悔しかった。「でも、学会としての誇りがありました。必ず、実績を示してみせる、と誓いました」
現場の職人に同行を頼み、話に説得力を持たせる工夫をした。新しい顧客と一緒にかつて担当した顧客の家を訪問し、住み心地を直接聞く機会を設けた。
その努力の結果、次年の成績は2位。そして、その翌年から2年連続で、トップの成績に輝いた。
新事業が県の「経営革新計画」に
攻めの姿勢
営業だけでなく、経営に必要な見識や設計技術を磨き、29歳で独立の準備に入った。会社を発展させるために何が必要か、と重面さんは考えた。
住宅は、顧客の一生を左右する“買い物”だ。−建築に対する自らの姿勢を、真剣に正、深めることから始めた。
商工会議所にも相談に行ったが、担当者は独立に悲観的だった。しかし、粘り強くビジョンを訴え、やがて相手も支援を約束してくれた。2004年、念願の独立を果たす。
しかし、スタートして3年ほどで経営は傾く。従業員も離れ資金も底をついた。重面さん夫婦は、懸命に祈った。
「何があっても変わらず、一切を楽しみ、悠々と生き抜いていける強さ『自身』をつくることである」
ー名誉会長の指導が心に響く。
“自分が強く成れば良い”困難な時こそ、攻めの姿勢で、知恵を絞り出そう!”
苦しみをはねのけ,考えだしたのが、広報戦略だった。
その為に、地域の学習会でインターネットの技術を習得した。自身でウェブサイトを立ち上げテレビCMや雑誌広告も出し、自社ブランドを宣伝した。
これまで培ってきた独自の建築理念を効果的にアピール。売り上げは着実に向上していった。
昨年末から初めた「解体費用ゼロ計画」も、先日、県の「経営革新計画」の一つとして承認された。
「これからも、学会で学んだ不屈の精神で、多いに知恵と努力を発揮し、人生に挑み続けたい」と力強く語る重面さんは未来をみすえる。
聖教新聞2010年3月22日付 通常板 聖教5面